思いは硝子とともに砕けた 普段あまり聞かない音が聞こえたから、アッシュは不審に思った。 堅苦しい社交場から解放されたばかりのアッシュは、自室の隣から漏れる音を確かに 聞いた。なにかがぶつかり合い、立てる音。それは耳慣れないものでもあり、同時にど こか本能的な何かを呼び起こす音だ。 どこからか漏れる焦燥感を、片手分だけ持ったまま、アッシュはゆっくり歩き出し、 目と鼻の先の隣室へと向かった。 軽くドアをノックすると、一度カシャンとあの音が大きく聞こえた。 とりあえずノックをした以上構わないだろうとドアを開くと、朱色が見えた。 「…あ、アッシュ…」 冷や汗をたらりと流して。 何事かと足下を見やれば、ガラスの破片が飛び散っている。大きめなものから、反射 して見えるか見えないか程度の小さいものまで。 そしてルークの白い手のひらの上には、それが幾つか乗っていた。 聡いアッシュが状況を把握するのに、そうそう時間はかからなかった。 「…こんの馬鹿が!!」 耳慣れない、ガラスがぶつかり合う音の代わりに、アッシュの大音量の怒号が空間を 支配した。そうすると、ルークの肩がびくりと震え、手のひらからいくつかガラスが零 れ落ちる。空気が震える音の他に、こぼれ落ちたときにカシャンとそれは音を立てた。 ルークは瞳をガラスと同じように、零れんばかりに見開く。口はぽかんとマヌケに空 いたままだ。 そして数秒後、やっとわたわたと焦りはじめ、手のひらの上のガラスを、全部落とし てしまった。 「いや、そのさ、落として割っちまって…」 わざとじゃねーんだって、ていうかわざともの壊すヤツいるのか? などと弁明をす るルークだったが、半分もアッシュには届いていない。下に転がっている破片は白く所 々に模様がある。その中には取っ手らしきものも確認され、ベットの上には甘い匂いを 放つクッキーの乗った皿。そして絨毯には染み。 「…ベットの上で呑気に菓子食って茶こぼしてその上割って、それでもわざとじゃねえ のか?」 「わ、悪気があったわけじゃねえって…」 「…だったら普通ベットで食うのか?」 不安定なベットで―特にファブレ家のベットだから当然高級で、その辺のものよりふ わふわとしている―お菓子を食べたりお茶を飲んだりしたら、こぼすことは十分予想が つく。それに気付かないからこそ、ルークなのかもしれないが。 はあ、と溜息をつくとアッシュはルークの手を取った。 「傷は?」 「へ?」 「…怪我してねえかって聞いてんだよ」 至極不機嫌そうにアッシュは呟く。それはすぐにかき消されそうな小さい声だったけ れど、ルークにはしっかり聞こえた。 「してねえとは思うけど…したとしてもたいした傷じゃねえって」 ルークがあっさりと返すと、アッシュの眉間の皺はいよいよ深くなる。 「…てめえ、傷口にガラスが入って血液の中に入ったら死ぬんだぞ!!」 そう言おうと思った。けれど不器用な彼は何も言えない。只ルークの両の手のひらを じっと見つめ、傷がないか、ガラスが残っていないか確かめた。 「兎に角、今度からは落とさないよう気を付けるからさ」 迷惑かけてごめんな、とルークは笑う。アッシュの言いたいことはそんなことじゃな いのに、ルークは何時だって気付かない。 カップを割ったことに怒っているわけではない。危ない、凶器にすらなるものを、素 手で処分することについてアッシュは怒っているのだ。もし血液中に入り込んで、心臓 に突き刺さってルークが死んだら―。考えただけで血液が逆流する気がした。 「…あとは俺がやる」 本当に言いたいことは何一つ伝えれない。そんな自分に歯がゆさを感じながら、アッ シュはルークに告げた。 ルークは嬉しそうに、「ありがとう」と笑う。その笑顔が今此処にあってよかったと 思う。 本当に伝えたいことは、ガラスと共に壊れてしまった。 アシュルク…。 うん、アシュルク。もうそれ以上言うこと無いものに仕上がってしまった…。(泣)