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少女に名前はない。 いや、あるにはある。けれど、彼女がファブレ家に奉公に出てから無くしてしまった。とは言っても別に名前を奪われたとか、そんな難儀で複雑なものではない。ただ、今彼女を、正しく本当の意味で呼ぶ人がいないのだ。名前に込められた意味を誰も知らない。彼女は大きなファブレ家の中では、只のメイドの一人でしかないのだ。「ちょっと」とか、「お前」だとか、大抵彼女はそう言うもので呼ばれる。だから今、彼女に名前はないのだ。 彼女は数ヶ月前まではありふれた家の娘だった。父は彼女が物心つく前になくなってしまって母と二人きりの暮らしだったが、それを寂しいと思った事なんてない。残酷かも知れないが、何も覚えていない父親は、彼女にとっていなかったと同義だ。父親がいないのが当たり前で、母と二人きりの生活だけが全てだった。 そんな彼女が奉公に出ることになったのは、母が年老いて、とてもじゃないが稼ぐことが出来なくなったからであって。母は、娘の年の割には老いている。兄もいたらしいが、戦にとられた、なんてことを一度だけ聞いたことがある。それも、やはり彼女の生まれる前の話であって、彼女にとっては現実ではない。とりあえず彼女にとっての真実であり現実は、彼女の家族は母親一人で、その母親は今まで、疲れた体に鞭を打って彼女を養っていた。それだけだ。 そうして紆余曲折の末、彼女は名門中の名門ファブレ家に奉公に出ることになった。母の努力の賜物で、家事の他に、他の田舎娘に比べれば勉学に優れていたのも要因だろう。 彼女が奉公に出てすぐに言い渡されたのは、嫡男であるルークの世話だった。 最初、彼女は大層不思議に思った。ルークは確か十にもなるはずだ。その年の子供に、そこまで年の離れていない彼女が教える事なんて、あんまり無い。勉学に優れている、と言ってもそんなもの、庶民が受けられる教育に毛の生えた程度のものであって、一流の家庭教師が付いているルークに教えられる事なんて何もないはずなのだ。 けれどすぐに、理由は分かった。 彼女が面倒を見るルークは、もう元のルークではなかったのだ。 「ルークさま、今日からお世話とさせて頂きます です。まだまだ未熟者ですが、よろしくお願いします」 言って、彼女は礼をする。久々に口にした自分お名前はあんまりに味気なかった。彼女の咽から出たはずなのに、彼女の体の上をつるりと滑るだけだ。自分の名前、という実感があまりにない。 「……」 ベッドの上に倒れ込んでいる子供は、声に反応してゆるゆると彼女を見た。ぱちりと翡翠が捕らえる。が、丸い翡翠にその姿を入れると、顔をくしゃくしゃにして泣きだした。控えめな泣き方だ。声の出し方を知らない、という方が正しいのかも知れない。喉を痛めてしまいそうな泣き方だ。 帰っていた子供は、自分の体の動かし方すら忘れていた。 余程のショックだったのだろう。髪の毛の色素も、毛先に向かうに連れて失われていた。全てを侵すほどの恐怖。それがどんなものだったのか、少し想像しただけで彼女はぞっとした。全身が粟立って、心拍数が上がる。彼女のお世辞にも壮大とは言えない、夢見るにも貧相な想像力でも、それほどのものを作り出せた。「本当」は、どれほどまでに苦しかっただろうか。胸が痛む。 「ルークさま、大丈夫です。私が傍にいます」 怯えているルークの手をとった。冷たいけれど、掌には確かに温もりがある。血が流れている。震えてひっこめられそうになるそれが、どうしようもなく愛おしかった。 |