沈丁花 薄暗くなった空には、雲に隠れ、朧気に一番星が輝いていた。 何故か雲は、暗闇の中でもはっきりと白い、と確認できるから不思議だ。 喉の奥からあふれ出そうな目眩を必死で押さえ続け、少し休めば楽になる、とやっと一段落付いた講演会場を 抜け出してきた。おそらくはろくに休めていないために溜まった疲労と、睡眠不足の体に無理をしたのが原因だ ろう。 地球にもこんな田舎があったのだろうか、と思い、ゆっくりと辺りを見回す。見渡す限り、山より高いものな ど何もない。 三百六十度見渡しても、草木ばかりだ。それは薄暗い今現在でも、しっかりと確認できるほどだった。どこか らかはわずかだが水の流れる音がする。 その零れそうなほどの緑の、さえざえしい草いきれが鼻腔にしみこむ。 春が近づいてきてはいるものの、外は今だ肌寒い。けれど、目眩の所為でのぼせかけた頭を冷やすには最適だ った。 彼女は今まで窮屈な講演会場にこもっていたことが馬鹿馬鹿しく思え、自嘲的な笑みを薄く、でも確かに浮か べた。 どこからか風に運ばれた、甘い、恐らく花であろうものの香りがする。 ふわふわとそれに誘われ、歩き出す。 甘い花の香り以外の手掛かりなんて一切なかったが、自然と足に迷いはなかった。 不思議だが、一度も躊躇することなくその場所にたどり着いた。 頭ではなく、生まれながらにある第六感が働いたのだろうか。 それとも、自分が幼い頃のように、何かに誘われるように来たのだろうか。そういうことは、幼い頃からリリ ーナ自身よくあった。そして、それは、彼女がもうすぐで20年間になる生きてきた中での、数ある記憶の中の 破片のような部分なはずなのに、しっかりと記憶されているものだから不思議だ。 頭の中で何度もかすかにフラッシュバックのようにその欠片と、頭を突き刺すような凝視感がちらつく。そう いう科学では説明できないような、まるで誰かがこっそりとその人のために隠したかのように、その贈りものの ような出来事は突然起こる。それを不思議だとも、可笑しいとも思わなかった。そしてそれを贈りものだと信じ ていた、短かったが、あまりにも幸せな幼い時代。 そんな幼い頃を懐かしみながら、意識をその記憶から手放し、目の前の場所に移した。 その場所には、リリーナの太腿くらいまでしかない低木が幾つも生えていて、それにはまるで砂糖菓子を乗せ たような小さな花が咲き乱れていた。あの甘い優しい香りは、確かにその小さな花から漂っていた。 きっと甘い甘い砂糖菓子に山ほどのスパイスと、素敵なものを山ほど混ぜてもこうなることはないだろう。そ れほどの素晴らしい香りだった。 けして目立つわけでもなく、花が群を抜いて美しいという訳でもない。 けれど、その花から目が離せなかった。いや、その花から意識をそらすことを、体全体が否定しているという 方が正しかった。 「あ…」 そしてそのとき、彼女の脳内でまた欠片がフラッシュバックした。 体の芯を駆け抜けるかのような凝視感とともに。 今度はかすかにちらつく何てものではなく、脳内に刻み込まれかのように。 そして、その瞬間足から力が抜け、へたりとその場に座り込んでしまった。少々水気を含んだ土が、リリーナ の膝をわずかに湿らせた。 あの日は今日と同じような少し肌寒いような、春へと向かっていく冬の終わりだった。 彼女は、そのとき彼 女の全てだった父親と母親と、出かけに来ていたのだ。父親は仕事が忙しく、こうやって家族みんなで出かけた り、時間いっぱい構って貰えることはほとんどない。幼い彼女には、それが悔しくて苦しくて、切なかった。だ からこそ、その分嬉しくて。父と母の手を引きながら、はしゃいでは、走り回っていた。 「リリーナ。今日はいっぱい遊べるのだから、そんなに慌てなくても良いだろう」 そう言って父親は空いている手で、リリーナの頭をくしゃりと撫でつつ微笑んだ。 「いえ!お父様、楽しい時間はすぐ過ぎてしまわれるのですよ!ですから、急がなきゃいけないのです!」 一秒でも良いから長く、お父様とお母様と、家族みんなで遊びたい。 そう必死で訴えた。それを見ると父親と母親はまた笑うのだった。 寒さなんて気にならなかった。むしろ、はしゃぎすぎた所為で、かけられていたコートが暑くて邪魔だった。 そしてそれを母親に渡した。 ところが、それはあっという間に崩れてしまった。父親のコートのポケットから、小さな音が鳴り響いた。 その音を聞いた途端、胸が張り裂けそうな気持ちになった。 「ああ私だ。…そうか。わかった、すぐに…」 「お父様!!」 電話の内容が終わる前に、声を上げた。 「リリーナ…お父様はお忙しいのよ…だから分かってあげて」 母親の制止する声が聞こえたが、それは頭に入らなかった。涙がボロボロと菫色からあふれ、止まることがな かった。 「わたくしは、今までずっと我慢してきました。…本当はお父様や、お母様と、お友達の言うように、一緒にピ クニックに行ったり、そろってお食事をしたり、今日のようにどこかへ出かけたり…。けれど、お父様はお仕事 が忙しいから。わたくしたちのために頑張っているから。でも約束したのに…。今日は、今日だけは、ずっと一 緒にいてくれるって…。だから、だから…わたくし、ずっと我慢して、楽しみにしていたのに…」 お金持ちじゃなくても、立派じゃなくてもいいから。 ただ、一緒にいたかった。「当たり前」が欲しかった。それだけだったのに、彼女には贅沢で、そして父親達 にも叶えがたい願いだった。 必死だった。それを言ったからといって、父親と母親を自分の我が侭に付き合わせることはできないと知って いたのに。だからそのあとの続きが見たくなくて、その場所から逃げ出した。 走り続けた。どこかだなんて知らない。 一緒にいた場所から、近くの植え込みに逃げ込んで、そのまま走り続けた。 どれくらい走っただろう。疲れきった足が止まってしまった。頬が紅潮しているのがはっきり分かった。 「はあ…」 思わず溜息が零れた。大きな、溜息。子供がするには大きすぎる溜息。 ―どうしよう。 もう、お父様やお母様には、こんな我が侭な子供はいらないかもしれない。わたくしは、必要ないのかもしれ ない。 そう、考えるとまた堰を切るように涙が零れ、大きな声を上げて泣いた。 これほど声を上げて泣いたのはいつぶりだろう。彼女はそう考えた。止めようとしているのに、止まらない。 今まで我慢してきた分だけ、それは零れた。 やっと落ち着いてきたとき、あることに気付いた。泣くことに夢中で、存在に気付かなかった、花。 それは柔らかく、甘い香りを漂わせていた。それはまるで、リリーナ自身に「大丈夫だよ」といっている気が して、また泣いてしまった。 「ああ…ああ…」 涙があふれた。忘れていた、記憶。 必死に声を抑える。 この花がまた、大丈夫だといっている気がするのだ。 けれど、それと同時にまた罪の意識が流れ込んできた。 ―何であのとき、お父様やお母様のいうとおりにしなかったのだろう。 いや、そもそも自分を引き取らなければお父様は死なずに済んだのではないか。何であのとき、レディさんに あれを渡してしまったのだろう…。 レディに対する恨みはもうない。けれど、自分に対しての怒りやふがいなさへ叱咤する声が内側から響いてく る。 ああ。 お父様。お父様。お父様。 また目眩が彼女を襲う。咽から突き上げてくるように吐き気がくる。あのときの消毒液の匂いが鼻腔に甦って くる。そして、血の匂いも。それと、最後に父親が自分を自身の子供ではないと言ったときのこと。あの瞬間、 非道く残酷で、世界全てが彼女の敵になった気がした。 今彼女は、次々に溢れてくる記憶の所為で、どうしようもなくあのころの自分に逆戻りした。いや、むしろ幼 い頃の自分に。 「いやです…。リリーナは、リリーナは…」 無理矢理吐き気を押し殺した所為で、咽が焼ける感触がする。思わず咽元を押さえ、足だけではなく、体ごと 前のめりになった。それでも、必死で言葉を紡ぐ。 そのときだった。 風がざわりと音を立て、あの花の香りが運ばれる。一瞬静かになったと思うと、ガサリと草木のずれる音が耳 に届いた。 「リリーナ」 「…?」 自分を呼ぶ声がした場所の方に目をやると、がっしりと立っている大木たちの間から、父親によく似た髪色が 覗いた。 「…お父様…?」 だが、死んだ人間が彼女の目に映るはずもなく、大木の隙間から姿を現したのは、彼女自身がよく知っている 人物だった。 「ヒイ、ロ…?」 「休憩時間は終わったぞ」 極めて事務的に言う彼に、彼女もまたそうやって返した。 「ええ…。そうですね。帰りましょう」 そう言うと震える足を自分で震えないように、制止し、何事もないように歩き出す。 彼の目を見ないようにして。 どうしてここだと分かったことは最初不思議だったが、彼は人を探したり、そういう類にはよく長けていた。 別に今さら聞く必要もないだろう。 ちょうど彼が出てきた大木の間に足を踏み入れようとしたときだった。 「待て」 「…なんですか」 いつの間にか後ろにいたヒイロに、リリーナの華奢な腕は彼女に負担がかからない程度に掴まれていた。 「休憩時間は終わったのでしょう?では戻らなくては。時間がおしています」 今度はさっき以上に冷たく返す。そうしないと、また弱音が零れて、今度こそ止まらなくなる気がした。 「休憩時間が終わったとは言ったが、戻れとは言っていない」 「え…?」 彼の意図を理解したのか、彼女は少し唇をとがらせ、下を向いた。 「あなたの仕事は私が一日ちゃんと仕事を推敲させるための手伝いでしょう」 「な自己管理も出来ない奴が言うな」 「自己管理ぐらい出来ます」 そして少し戻り、あの低木の場所へと歩み寄った。 甘く甘く優しい香り。 ぱさりと、彼女の体に何かがかかった。それは彼が今まで着ていたジャケットだった。 「ヒイロ、私は平気ですから」 「着ていろ。風邪を引かれては困る」 また子供扱いを、そう彼女が思ったとき。 思い出した。 続きを。 「えぐっ…、ひっ…うう…」 泣くことにだけ夢中だった。そのとき、いまと同じように。 ぱさり。 「ふえ…?」 それは、間違いなく彼女の父親のコートだった。あたたかい。 「リリーナ!!」 「おとう、さま…?」 怒られるだろうか。謝る言葉が口からでかけた瞬間。 「よかった…!!見つかって…!!」 ぎゅうっと、強く強く抱きしめられた。すっぽりと小さいからだが隠れた。コート以上に、温かかった。 そして彼女はまた泣いた。 「お父、様…!!!」 ああそうだ。彼女の欲しかったモノはこれなのだ。 ただ、ぎゅうっと、抱きしめて欲しかったのだと、彼女は理解した。 「リリーナは、平気です。お父様がこうしてくれたから、平気です」 甘い香りがその場に、祝福するように漂っていた。 笑えた。また。 そして、彼女は今でもすっかり成長した自分自身の体をぎゅうっと抱きしめた。 それを見た、彼は心底不思議そうに彼女にたずねた。 「何を、しているんだ?」 「元気の出るおまじないです。とびっきりの」 彼女がすごく嬉しそうだったので、彼は自分を抱きしめている彼女を、さらに抱きしめた。 そうされると彼女は。 「ヒイロは、わたくしのお父様に似ていますね」 「……!?」 あの甘い香りを漂わせていた低木の名は、沈丁花。 花言葉は、やさしい木。 沈丁花って、冬の終わりのあたり咲いていますよね? ショックをうけるヒイロ氏が書きたくて、最後はああなってしまいました。(何故に。) ヒイロ氏は気苦労が絶えません。