う、とアッシュは唸った。
 困った。どうしよう。
 そんなことがぐるぐる回る。

 事の起こりは今朝だった。
 相も変わらぬ豪邸ファブレ家の優雅な朝。広い広い、それはもういっそ無駄なんじゃないかって程に広いファブレ家の食卓机で、優雅な雰囲気に似つかわしくアッシュは優雅に朝食を取っていた。躾のおかげで、一つ一つの動きは洗練されている。思わず使用人達が溜息を吐くほどだ。
 
 しかし、食後、その優雅さはぶちこわされた。
「なあアッシュ」
 自室に戻った後、まだ眠い目をこすっているルーク(すぐにそれはガイによって止められた)を抱いたガイがそこを訪問した。ノックもない、良家の使用人にしては不作法だ。もし着替えでもしていたらどうするのだろうか、アッシュは眉間の皺を深くして溜息を吐いた。
「何だ、いきなり」
 アッシュは基本的に早起きであるから、学校に行くにはまだ時間はある。けれども、何となく落ち着かない。アッシュは真面目すぎて神経質な方だ。ちらりと横目で時計を見る。やはり、まだ時間はあった。

「お前、一人暮らしするつもりなんだってな。シュザンヌ様から聞いたぞ」
「ああ…そのことか」
 ふっと、アッシュは小さく息を吐く。そう言えば、ガイにはまだ話していなかった。アッシュは今いる中学校からそのまま入学できる高校に行く気はない。ずっと前から決めていた。もっとレベルの高いところで、ファブレ家の嫡男として相応しい色々を学ぶつもりでいたのだ。それがアッシュの責任だと思っている。

「ああ。俺らも一緒に住むことになったから」
「はあっ!?」
 そのガイの、まるで今晩のおかずの発表ですみたいに軽い口調で告げられた事実に、アッシュは慌ててガイを見据えた。ガイは相変わらずの王子様顔を緩めて、「なぁールーク」なんてルークに話している。しかしルークはまだ半分夢の中だ。

「何言ってやがる!」
「いやだって、なあ?」
 呑気な口調でガイは今までの経緯を説明する。が、アッシュは納得しなかった。それでは意味がないと思った。
 アッシュは、自分に足りないのは生活力だとか、そういうものだと思っている。だから高校受験も決めた。いくら成績が良くて武芸に優れていても、やはり巡られた環境で過ごしてきたアッシュにはいまいちそういう感覚が欠けている。それをアッシュは自覚していた。それでも駄目だと思っている。真に素晴らしいもの―特にアッシュは、後々国王となる身だ―になるには、そう言った感覚が必要不可欠だ。っそれがなくては、貴族や上流階級だけに偏った政治を執りかねないし、国民の実情に合った政治が出来ない。
 そのための一人暮らしだ。確かに大変で不安だとも思うが、それくらい乗り越えられないのであれば上に立つ資格なんて無い。
 それに、幼い実弟を見ていると、弱いものを守らなければ、と思うのだ。それだから決めたのに、ガイの申し出を受け入れたらそれらの決意が水の泡だ。叫んだ。

「それじゃ意味ねえんだよ屑が!」
 そのあとつらつらと自身の決意の理由を述べるが、ガイはほうほうと関心するだけだ。しかもルークに「すごいなー」とか言いながら。思わずアッシュのこめかみあたりの血管が膨らんだ。無理もない。

「兎に角、俺は一人で暮らすからな!」
 そう叫んだ瞬間、今まで起きているんだか寝ているんだかいまいちはっきりしなかったルークがぱちんと目を開けた。そして、大きくてくりくりした瞳をアッシュに向ける。そのあとガイに「おろして」と催促した。とてとて危なっかしい足取りでアッシュの方に向かってきて、アッシュの足にしがみついた。

「あにうえぇ」
 寝起きの所為か、ルークの舌っ足らずはいつも以上だ。とろけそうなそれにガイが背景で悶えている。とりあえずアッシュはそれを無視した。ルークを見る。
「…なんだ、ルーク」
「おれ、あにうえいっしょがいい。あにうえいっしょじゃないと、やだっ」
 そう泣き声混じりに言って、小さな頭を足にぐりぐり押しつける。その様子にアッシュは胸が痛んだ。
 正直な話、アッシュは豪邸にも隅から隅まで行き届いた快適な生活にもあまり未練はない。少し前までは母親が心配だったが、今ではルークが生まれる前くらいには体調が回復したし、父親も傍にいてくれるという。だから安心して家を離れる決意が出来た。けれど、唯一の心残りはこの年端のいかない弟だった。
 病弱で籠もりきりの生活を送らざるを得なかった所為か、ルークは大変世間知らずで間の抜けたお子様に育ってしまった。この前初めて鼻血を出したときなんか、それが何か分からなくて三十分程放置していたし(血まみれのシーツを片づけたのは半泣きのガイだ。ルークは少し暑くて逆上せてしまっただけだ)、買い物に行った時はガイやアッシュと見間違えて知らない人にぽてぽてついていく。(そのときもガイは半狂乱で探し回った。ずうっと俺と手を繋いでような? と言う顔は本気だった)
 我が弟ならこの先どうなってしまうのだろう…。

 それだけが心配で、心残りなのだ。

「あにうえ…おれ、きらい?」
 うるうると上目遣いで見られて、涙声で告げられて。思わずアッシュもたじたじになった。ひどく悪いことをしている気分になってくる。

   そして冒頭に至る。


「…そろそろ俺は学校に行かないと」
 とりあえず、逃げた。


「…アッシュ」
 帰ってくると、ガイに呼び止められた。睨んでいる。声もいつもより低い。いつものとろけた王子様顔と爽やかな空気は何処にもない。思わずアッシュが怯んだ。

「ルーク、ずっと泣いてたんだぞ」
 ひどく不服そうにガイは言う。アッシュに射殺さんばかりの視線を向けてきた。一応建前上は使用人なのに容赦ない。ガイはことルークに関しては全力だ。

「ちょっとこれ、見てみろ」
 ガイが差し出したのは一枚の絵だ。大きな画用紙一面に、色鮮やかなクレヨンで絵が描かれている。幼児らしい絵だ。
「これ、家だってよ。これが俺でこれがルークでこれがお前。…どういうことか分かるか?」
   ぐ、とアッシュは言葉に詰まる。その色鮮やかな世界にはルークの望みが、幸せが、全部がキラキラに詰まっているのだ。眩しい。

「お前らは年が離れてるだろ? そうでなくたって、兄弟だって何時かは離れて暮らすものなんだ。…でも、それは今でなくていい。早すぎる、そう思わないか?」

「まあ、ルークに忘れられてもいいんなら、俺は全然構わないがね」
 にやり、ガイが笑った。悪戯っぽい笑顔だ。

「…わかった、屑」
 アッシュは、やれやれとかぶりを振った。

 ルークが泣きはらした顔で笑うのは、もうすぐ。








 お久しぶりのひよこちゃんです。
 とても楽しく書けました。ガイの親馬鹿ぶりは毎回書いていて楽しいです。